コロナ禍に冬休みで帰国。思わぬ事態が!

こんにちは! アメリカのブラウン大学(Brown University)に留学中のKentaです。今回は、秋学期を終えて帰国したとき(2021年12月)のことを書きたいと思います。

空港
大混雑の国内線

帰国準備

秋学期が終わり、冬休みが約1か月あったため、日本に帰国することにしました。

ボストンを12月21日に発ち、シカゴで乗り継ぎをし、東京に12月22日午後に到着するという予定です。

ご存知のように、12月に入ってから世界各地でコロナウィルスのオミクロン型が流行り始めていました。

日本もその影響で、入国に際してのセキュリティを強化しており、指定地域(アフリカ・ヨーロッパ諸国)から帰国した人に対しては、ホテルでの隔離を義務づけるなどの対策をとっていました。

12月の中旬からはアメリカの一部(カリフォルニア州・テキサス州など)も対象になりましたが、幸いにもブラウン大学があるロードアイランド州は対象外であったため、2週間の自宅隔離で済むと思っていました。

帰国するに際して、いくつかの書類を用意する必要がありました。予防接種証明書をはじめ、搭乗2日前までに行われたPCR検査の結果、必要に応じて自己隔離するという宣誓書などです。

これらの書類をすべてそろえて、電車とタクシーを使ってボストンのローガン空港に向かいました。

ボストンからシカゴまで

ボストンからの便が朝5時半発であったため、空港で夜を明かすことに。

幸いにも友だちが2人付き添いで来てくれたので、話したり、ゲームをしたりして時間をつぶし、チェックインの手続(スーツケースを預ける列がとてもとても長く、1時間近く待ちました)をとって飛行機に乗りました。

飛行機は国内線ということもあって満席。3時間と少しのフライトでしたが寝られず、読書で乗り切ることに。

“The Tale for the Time Being”(ある時の物語) という本を読んでいたのですが、隣に座っていた高齢のアメリカ人夫婦が僕にいろいろ話しかけくださいました。

夫婦:“What book are you reading?”(何の本を読んでいるの?)

僕:”The Tale for the Time Being. It’s about a diary of a girl who was getting bullied at school and whose father was suicidal and mother was not loving and…”(ある時の物語だよ。学校でいじめられていて、お父さんが自殺を何度も図って、お母さんが全然愛してくれない少女の日記についてなんだけど、、、)

夫婦:”How do you like it so far?”(いまのところ読んでいて楽しい?)

僕:”I think it’s decent. The writing style is very interesting though.”(まあまあだよ、作者の文章であったりが興味深いんだよね)

このような会話がもうフライトの半分以上でしたね。

周りで聞いている人もいて少し恥ずかしい気もしましたが、アメリカならではといった感じでおもしろかったです。

シカゴに着いてからは乗り継ぎが3時間あったため、barnes & nobels(書店)に行き、立ち読みしたり、マックで朝ごはんを食べたりして時間をつぶしました。

シカゴから東京まで

シカゴから東京までは12~13時間のフライトでしたが、驚いたのは乗客が僕を含めて15人しかいなかったこと。

日本政府の対策が強化されたからかどうかはわからないですが、自分の列に乗客がだれもいなくて、横になれたのでとても助かりました。

飛行機からの風景
飛行機からの絶景

1年ぶりの日本

半日かけて飛行機に乗った後、ようやく羽田空港に着きました。

ところが、本当の試練はここからでした。

着いてからすぐには空港を出られず、まずは事前に用意した書類の提出、そしてPCR検査、さらに書類の確認、そしてまた書類のチェック、MySOSというアプリの使いかたの説明を受ける・・・といったことがあって、かなりしんどかったですね。

そして自宅隔離かホテル隔離(もしそうだったらどのくらいの期間か)を言い渡されるブースがあったので、100%自宅隔離だと思っていた僕は、特段心配することなくそのブースに向かいました。

担当のかた「吉居さんはどちらの州の空港から来られましたか?」

僕「マサチューセッツ州の空港から来ました。しかし、滞在していたのはロードアイランド州ですので、マサチューセッツ州には少ししか滞在していません」

担当のかた「空港まではどのような交通手段で向かいましたか?」

僕「電車とタクシーです」

担当のかた「公共交通機関なので、それだとマサチューセッツ州滞在扱いになるのでホテル隔離3日間が必要になります」

いやもう、これを聞いて驚いてしまいました。電車を使っただけなのに。

まあ3日ならいいかと思い、陰性結果が出るのを2時間弱待ち、到着から4時間後にようやく空港を出ることができました。

空港を出るとすぐに隔離ホテルへの送迎バスに乗って、外気をゆっくり吸う間もなくホテルに運ばれました。

ホテル(アパホテルでした)の受付では、バイオザードで出てきそうな防護服のかたに荷物運びなどの手続をしてもらい、気づいたときには部屋の中。その日は疲れていたため、提供されたお弁当(帰国後初の日本食、美味しかったです)を食べてすぐに寝ました。

隔離中の弁当
隔離中のお弁当

まさかの事態に

ホテルでの隔離中に僕がしなければならなかったことは、1日2回の検温と体内酸素濃度の計測と記録、看護師への体調報告、3日に1回PCR検査を受けること、くらいでした。

食事の受け渡しも非常に単純で、係員がドアの前にお弁当と水を置いてくださり、決められた時間にそれを取るだけです。

隔離初日は友だちと電話したり、映画を観たりして乗り切り、2日目の14時ごろ板橋区の事務局から電話がかってきました。

どうやら同じ便に乗っていたかたが、オミクロン感染の疑いがあるということ(15人くらいしか乗客がいなかったのに)。そしてその結果、僕が濃厚接触者ということで隔離期間が2週間に延びるということを言い渡されました。

これにはもう驚きを隠せませんでしたね。日本に1か月滞在する予定で帰ってきたつもりでしたが、その半分をアパホテルで過ごすことが決定したのですから。

というわけでクリスマスイブ、クリスマス、年末年始すべて1人で過ごす羽目になりました。とにかく隔離中は映画を観て、プログラミングをし(自分のウェブサイト作成など)、友だちと話したりして時間をつぶしました。

隔離を終えて思ったのは、1人の時間も悪くはないということ。秋学期は5人のルームメイトが常にいたので、久しぶりに1人で過ごす時間は少し新鮮味があって、意外と楽しむことができました。といっても2週間は長すぎますが。

ようやく1月5日の朝にホテルを出られるということで、タクシーを手配して家に帰りました。1年ぶりの家、母の手料理、お風呂はとてもよかったですね。

まとめ

 2週間の隔離は長かったものの、日本にいるかたがたの安全を守るためには必要なステップでした(お弁当も美味しかったですし)。

本当に感謝したいのは隔離ホテルや空港で手続をしてくださった若い学生から高齢のかたまでの、すべてのかたがたです。夜遅いのに、僕の要望に応えてくださったり、空港でも優しく接してくれたりして、本当に尊敬します。

報道などで取り上げられない、こういったかたがたがいるおかげで社会が成り立っていると実感しました。

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