留学は日本地図からの脱出 中編 ~自分の好きなことをやったほうがいいよ~

個性を伸ばすアメリカ式教育

息子が高校二年の四月に、突然「俺、アメリカの高校に留学する」と言い出した。日本の高校で一年間過ごして、彼は自分をアピールする場を見出せなかった。

もちろん彼のいい格好も含まれているから割り引いて聞かなくてはならないのだけど、もっとディスカッションしたい、生徒活動をやってみたいといろいろ考えていたのにできなかった。それでいやになってしまったという。

私も悪かったのかもしれないのだけれど、高校で彼はバスケットボール部に入った。私は練習ばかりしている日本のスポーツ部がどうも好きになれない。何であんなに練習するのか、私にはとても理解できない不思議な世界だった。

彼も毎日夜遅くまで練習して、日曜日も朝早くから練習に出かけていく。家の掃除とご飯を炊くのが彼の役目だったが、練習で忙しいから何もできない。夜になってもご飯は炊けてないわ、掃除はしてないわで、みんなから非難ごうごう。事あるごとに、「バスケなんかやめろ」と家族で大合唱していた。

ほかにどんな理由があったのかわからないけれど、結局、途中でやめてしまった。

彼は学園祭のときに脚本を書いたのだが、クラスメートの協力が得られなかったらしい。練習もほとんどしない状態で、結果はさんざん。とにかくいろいろなことを試みたけど、彼は日本の高校で自分を発揮できる場を見つけられなかったようだ。

高校受験のときに、私がアメリカの高校に進学したらどうかと勧めたときは、「絶対にいやだ」と言ったのだが、二年生になる直前に「留学したい」と言い出した。

私は息子の気が変わらないうちにとパタパタと手続きして、ボーデイングスクール(Boarding School=寮制の学校)に送り込んだ。

息子をアメリカに留学させたかった理由は、彼は成績は悪くないのだけど、みんなと変わったことやほかの子より目立つことをすると非難されるから「いやだ」という考え方をする。そのくせ本当は、ほかの子より目立ったり、変わったことをしたかったはずなのだ。

私は、自分の行動を決めるときに、みんなと同じであるかどうかを気にする息子を見ているのが悲しかった。そういう変な常識を学校で教えてほしくなかった。

日本の教育は表面的な平等主義で、小学校の卒業式でも長い祝辞を区切ってみんなに一言ずつ言わせる。そうすることが平等だと信じて、平気でする学校の方針がまったく理解できなかった。息子の卒業式に出席したときには、情けなくって泣きたくなったほどだ。

劇にしても、なるべく主役の目立たないものを選び、そのうえ主役の台詞を少なくする。こういうことは、本当にばかげているとしか思えない。

それぞれの才能の違いを認めて、プライドを持てるチャンスを与えてもいいではないか。成績が優秀な子は表彰してあげればいい、演説の上手な子には祝辞を述べさせる。成績は落ちこぼれでも、スポーツの得意な子は運動会で一番になって、みんなに拍手されていい賞品がもらえる。音楽の好きな子には文化祭で、ロックを演奏するチャンスを与え、みんなで踊るようなことがあってもいいだろうと思う。

得意なことを誇らしく思えるチャンスを与えれば、それぞれの才能を伸ばせる。将来どういうふうに生きるか考えるヒントにもなる。それが成績だけで評価され、できない子はどんどんおいていかれて「おまえはバカだ、パカだ」って言われる。勉強以外の活躍の場は与えられないのだから、学校がおもしろくなくなる子がいても当たり前。

アメリカでは多少勉強ができなくても、スポーツができればビューティフル。絵が上手ならビューティフル、ピアノが弾ければビューティフル。どこかにちょっとでも優れたところがあれば、ビューティフル、ビューティフル。

人はそれぞれに能力が違うのだから、持っている才能を伸ばそうとするのがアメリカ式教育の基本になっている。「ほめて、ほめて、ほめて」自分の才能に自信やプライドを持たせる。

日本の教育では「できない、できない」って頭叩かれて、劣等感を持つようになってしまう。自分自身にプライドが持てるような教育がされていないから、みんなと同じであろうとする。「みんなと一緒でなきゃいやだ」とまわりのことばかり気にする。

私は息子にプライドと自信を持たせてくれる教育を受けさせたかった。彼が持っている才能に自信を持って、それを伸ばすように生きてほしいと思った。それを本当は本人が一番望んでいるはずだから。

発達スピードにも個人差がある

子どもは背の伸び方が違うように、心や脳の発達にも個人差がある。小さいときに神童と評判になるほどよくできた子が「二十過ぎればただの人」になってしまうことはとても多い。逆のケースで、小学生のときは目立たなかった普通の子が、高校生になってすごく力を発揮することもある。

例えば、抽象的思考能力が発達していないと分数は理解できない。その抽象的思考能力が、高校生にならないと発達しない子と、小学校の三年生くらいで発達している子がいるのだ。

小学校の三年生ぐらいで発達していたら、日本では「頭がいい」となるが、それは発達のスピードが違うだけで、「頭がいい」かどうかは関係ないこともある。ところが日本の教育システムでは、学校のカリキュラムどおりにできない子は「落ちこぼれ」として扱われて、親のがまん強いフォローがないと本当についていけなくなる。

アメリカでは、子どもの発達スピードがそれぞれ違うから、普通のレベル、普通のスピードに合わない子には、遅いスピードで教育することが平等だと考える。

普通の学校では、飛び級といってそれぞれの能力に応じて学年を決める制度もある。アンダーアチーバー(Under Achiever)といって、発達が遅い子どもたちのプログラムや学校もある。発達スピードが遅い子どももいるので、遅い者を集めて教育する。

アンダーアチーバーの学校を卒業してから優秀な大学に入学する子どももいるので、恥かしいとか劣等感を持って通っているわけでもない。

IQの高い子ばかり集めている学校もある。ギフテッドチルドレン(Gifted Children = 才能豊かな子どもたち)と呼ばれて、天才児ばかりが集められて教育を受ける。IQの高い子どもも、修得するスピードが違うことで悩むので、一つ間違えると劣等感を持つ。それにまかり間違って、IQの高い人が犯罪人になれば大変なことになることもある。

両方とも普通の子とは発達のスピードが違うのだから、それを認めて能力を伸ばそうという考え方をしている。

アンダーアチーバーやギフテッドチルドレンの学校があるくらいだから、アメリカの学校は高校までの成績が悪い子や登校拒否児を問題視しない。例えば、高一とか高二で登校拒否や中途退学したケースでも、大検をパスすれば大学に願書を出せる。アメリカにもGEDといって大検と同様のシステムがあるので、多くの学校はちゃんと認めてくれる。

考える力、創造力は余計なもん?

息子を留学させたかったもう一つの理由は、自分で考える力を養い、伸び伸びと意見が言えるようになってほしかったことだ。

日本の教育は知識を詰め込むことに腐心していて、自分で考えることや創造力を養う教育がほとんどされていない。習ったことをそのまま暗記できて、きちっと答えられる子が優秀という評価になる。

もちろんアメリカでも同じで、それはすばらしいと評価される。ただ、多少暗記があやふやでも、自分で考えることを奨励する。創造力を尊重した教育を行っている。

「あなたの意見はどうなのか」と問いかける。例えば、あなたがリンカーン大統領だったら奴隷を解放しただろうか。あなたがこういう立場だったらどう判断したか、この小説に書かれていることについてどう思うかと、いろいろなテーマでディスカッションする。

それを必ずクラスの最後にレポートで提出させる。こういう教育によって、創造的かつ論理的に思考するる能力も養われる。

先生たちはどんな変わった意見に対しても、真っ向から受け止めようとする。日本では授業中に自分の意見を持って質問でもしたら、先生に授業のじゃまをしていると思われかねない。日本の教育制度では創造力なんて余計なものだから、叱らないにしても、ほとんどの先生は迷惑そうにする。

自分で考えるような教育も受けていないから、先生が、「授業参観ですから、今日はディスカッションしましょう」なんて言っても、手を挙げて意見を述べられる子どもなんていない。ほとんどの生徒は、何も言わないで下を向いている。

今日は特別だから自由にディスカッションしましょうと提案されたって、思考能力が養われていないから、生徒にすれば「面倒な授業だぁ、うっとうしい」ぐらいの感じでしかない。授業が終わるのをじっと待っている。ここぞとばかりに自分の意見を述べられる生徒なんて、ほとんどいないのが現実。

日本の教育では、知識を教えているかわり、生き方を考えさせる時間もチャンスも与えていない。アメリカでは、父母が授業に参加して、どんな仕事をしているか子どもたちに話して聞かせる。プライドを持って仕事をしていることをおもしろおかしく話す。

話をどう判断するかは、もちろん子どもによって千差万別。格好いいと思う子もいるだろう、自分は肉体労働は無理だから勉強しようと考える子もいる。ともかく将来の生き方を考えるチャンスと時間は与えられる。

私は息子たちに暗記力より思考力、創造力を養うことを重視するアメリカの教育を受けさせたかった。いろいろな生き方があるなかから、将来の方向を自分で選択してほしいと思っている。

周囲がどう考えているかばかり気にする、ちょこまかした小さな人間になって、結局はサラリーマンになるために生きていると錯覚するような息子になっては、私は絶対に困る。

理数系に弱い? 試してから決めたほうがいい

高校の一年や二年で化学がわからなくなったり、数学で赤点取った子は、「理数系はダメだ」と可哀相になるくらい劣等感を持たされている。

「理系はダメです。数学はダメです。えー、アメリカの大学で数学取らなあかんのですか? 私、絶対数学ダメです、数学ない学校ないんですか」と、異様だと思うくらい拒否反応を示す。

アメリカの大学で勉強しなければならない数学は、日本の中学三年から高一レベル。日本の高校で赤点取っても、アメリカで一番になる学生もいる。それに数学のクラスは、数学がわかっているかどうかを評価するのだから、英語が下手でも先生は問題にしない。

アメリカの学校はコンピュータのできない学生は、コンピュータのクラスを選択させられる。コンピュータの前に座らされて、ゲーム感覚で先生が手取り足取り教えてくれる。コンピュータゲームで遊ぶのと同じようなものだから、誰でもできるようになる。

日本で理数系はダメだ、コンピュータも苦手だと思い込んでいた学生が、有無を言わさずやらされて「おもしろいやんか」と、専攻をコンピュータサイエンスに途中で変更するケースだってある。

こういう事情を説明しても、母親まで「うちの子は数学ダメですから」って念を押す。何でこんなに思い詰めているのだろう、と不思議になる。

高校でちょっと数学につまずいたり、物理が難しくなったぐらいで、理数系に弱いと思い込むのはよくないと思う。反対に、高校の化学や物理が何となくわかった程度で、理系に向いているというのもちょっと怪しい。

日本の進路指導は意外に単純だから、数学の成績がよかったら理数系、赤点取ったら文系と決めてしまうようなところがあるが、十六、七歳では自分の得意なこともはっきりしていない。やりたいことが漠然としているから、先生や親の指導で大学の専攻を選択する。そんな程度の進路選択だから、大学に入ってから悩む学生もいる。

経済学部に入って経済を勉強したが、どうも自分に向いていないと思っても日本の大学では専攻を変えられない。他学部の授業を自由に選択できるシステムもない。

専攻を決めないで大学に入って、四年間いろいろな分野の基礎を学んでから将来の方向を決める。やっぱり医者になりたい、弁護士が自分に向いていると思えば、大学院で勉強するアメリカのシステムのほうがはるかに合理的だ。

それに欧米ではインターンシップがものすごく発達している。学生はインターンシップで会社で企業実習をすると、大学は実習時間数を単位として認める。

さらに、そこで得られた実務知識や経験は就職のときに有利になる。また企業実習して仕事の内容がわかると、自分に合わないとか、今のままではとてもダメだ、大学院でもっと勉強したほうがいいとか判断することもできる。

日本の大学にも、四年間で自分の生き方を見つけられるようなシステムがあってもいいだろうと思う。将来の方向性というか、少なくとも自分らしい生き方をできるようなヒントを与えるような教育ができないものだろうか。

「学問の世界でございます」って、ふんぞりかえっていないで広く一般から教授を募集して、経営学部だったら実業家や企業のトップを呼んで実践的なクラスを設けてもいいだろうと思う。

企業は新卒を採用する従来のやり方を見直し始めている。学生も就職先を選ぶなんて悠長なことは言っていられなくなった。一流大学ならどんな学部でも同じだとか、成績に関係なく大学の看板で就職先を見つけることも難しくなった。

学生が何を学んだろうか、就職するときに何をアピールできるだろうかと考えるようになれば、大学も方向を変えざるをえなくなるだろう。

でも「何たって日本の大学の先生、頭が固くて融通性がないしな」。発想の転換ができるかどうか。

アートやりたい? おもしろいんじゃない

「音楽をやりたい、アートやりたいから留学したい」と子どもが話すと、「アー卜なんかやってから、どうやって飯食うねん。音楽やってどうするねん」と、ほとんどの親は腹を立てる。親はアメリカの大学も日本の大学と同じだと思っているから、リスクが高すぎると反対する。

日本の音大、芸大は特殊な世界で、一握りの天才を育成するためにある。ピアノや絵の才能が抜きん出ていなければ、とても無理。たとえ入学できても、音楽家や芸術家になるのはまれなケース。結局は大半が先生か普通のサラリーマンになってしまう。

アメリカにはリベラルアーツ・カレッジ(Liberal Arts College)と呼ばれる私立大学があり、アートや音楽を勉強できる。それで私は「いいんじゃないの、おもしろいんじゃない。好きなこと、興味のある分野を勉強したほうがええ。好きでもないことを英語で学ぶのは、とてもじゃないが大変。好きな分野を選んだほうがええ」と賛成する。

アメリカの芸術系の専門大学は、日本の音大、芸大と同じように、入学するときに才能が試される。世界中から学生が集まるので、オーディションも厳しく、レベルの高い作品を提出しなければならないが、リベラルアーツ・カレッジではオーディションも作品提出も要求されない。

リベラルアーツ・カレッジでは、芸術はまず第一に自分を楽しませ豊かにするためにある。その次に自分が愛する人たち、恋人、家族を楽しませ、そして最後に他人を楽しませるものという考え方が根底になっているのである。

絵が下手でも、ピアノが弾けなくても一から教えてくれる。何となくアートをやりたいということでも、油絵、陶器からシルクスクリーンまでアート全般をやってみることができる。アートを勉強していて突然音楽もやりたくなったら、アートと音楽の二つを専攻できる。あるいはアートと経営学やコンピュータを専攻することもできる。

アートや音楽は、創造力を豊かにしてくれるので、好きなことを楽しみながら感性を磨き、その分野に関しては相当深いところまで知識が得られれば、将来どんな仕事についても役立つ。

音楽産業を考えてみても、レコード、CD会社はもちろん、歌詞の翻訳、外国でのレコーディングや来日するアーティストのコーディネイトなど、留学で得た知識を生かせる職種はいろいろある。

感性が豊かで、専門の知識があって、英語もできるとなると、ビジネスを勉強した人よりも有利になる。ファッションの世界でも、カルチェやサン・ローランのブティックでマネージャーとして活躍している人の多くは、外国のアート系の学校を卒業している。

アメリカでハードに勉強して、一つの分野に関してかなり深いところまで知識と理解力を持つまでになると、やり遂げたという充実感を覚える。その分野に関しては、日本語と英語で議論ができると自信も誇りも持てる。これだけでも留学の価値があると思えるほど、何ものにも代えがたい財産である。たとえ田舎の小さな大学でも、そこまでやりとおせた自分を誇りに思う。

アメリカに留学すると、言葉も習慣もよくわからないなかで暮らさなければならない。それでもうまくやっていくためには、一つでも多くのことを覚えようとする。何とか、文化、価値観の違いを認めようとする。それを認めたうえで自分の主張をしていく、これを繰り返す。こういう感覚が仕事をするときに武器とならないわけがない。

(著書「アメリカ留学で人生がおもしろくなる」より抜粋)

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    著者情報:栄 陽子プロフィール

    栄 陽子留学研究所所長
    留学カウンセラー、国際教育評論家

    1971年セントラルミシガン大学大学院の教育学修士課程を修了。帰国後、1972年に日本でアメリカ正規留学専門の留学カウンセリングを立ち上げ、東京、大阪、ボストンにオフィスを開設。これまでに4万人に留学カウンセリングを行い、留学指導では1万人以上の留学を成功させてきた。
    近年は、「林先生が驚いた!世界の天才教育 林修のワールドエデュケーション」や「ABEMA 変わる報道番組#アベプラ」などにも出演。

    『留学・アメリカ名門大学への道 』『留学・アメリカ大学への道』『留学・アメリカ高校への道』『留学・アメリカ大学院への道』(三修社)、『ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?(ワニブックスPLUS新書)』、ベストセラー『留学で人生を棒に振る日本人』『子供を“バイリンガル”にしたければ、こう育てなさい!』 (扶桑社)など、網羅的なものから独自の切り口のものまで、留学・国際教育関係の著作は30冊以上。 » 栄陽子の著作物一覧(amazon)
    平成5年には、米メリー・ボルドウィン大学理事就任。ティール大学より名誉博士号を授与される。教育分野での功績を称えられ、エンディコット大学栄誉賞、サリバン賞、メダル・オブ・メリット(米工ルマイラ大学)などを受賞。

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