「納得するまで自分を試したい!」 留学がすべてのはじまり-私の留学- 第1回

留学をするかどうかで迷っている。
留学に漠然としたイメージしかない。

英語が通じるか心配。
アメリカでちゃんと勉強し、学生生活をおくれるか不安。


このコラムにたどり着いた人は、そんな不安を抱えた人ではないのでしょうか。

そんな方へ向けた、日本初の留学カウンセラー栄 陽子の留学体験記です。


=本文より=

「ミシガンの学校に入ることになったが、当時わたしはミシガン州がアメリカのどこにあるのか知らなかった」   栄 陽子


ここには、難解な教育論でなく、
彼女のドタバタな実生活や若き日のリアルな感情を綴っています。時代は違えど、人の考え方や学ぶこと自体の本質は変わりません。
この体験記があなたの留学に対する悩みや不安を解決するためのヒントになればと思います。


【栄 陽子 略歴】

1970年 帝塚山大学卒業後、米国セントラル・ミシガン大学大学院へ入学
1971年 セントラル・ミシガン大学大学院教育学部修了
1972年 オハイオ州立大学大学院教育学部カウンセラー・エデュケーション専攻


帰国後、アメリカ留学専門の進路相談および進学指導を行う「栄 陽子留学研究所」を設立。
2022年現在までに10,000名以上のアメリカ留学をサポートし、入学率100%、卒業率90%以上という実績を誇る。


1.留学で自分を試す

奈良県で生まれ育った私は、中学生のときから受験戦争も知らないままエスカレーターで地元の帝塚山大学に進んだ。いわゆる苦労知らず、世間知らずといった類の人間。でもそんな自分なりに心のどこかで、「このままでは、そのうちアカンようになるんじゃないか」と思っていた。

いわゆる「いつまでもあると思うな親と金」をどこかで感じていたのかも知れない。ただ何をしたら良いのかもわからず、自ら進んで勉強するほど何かに興味があるわけでもない。

漠然とした不安を感じながら田舎のお嬢様学校で「自分らしさ」や「自分にしか出来ない特別なコト」をなんとなく探していた。

そして大学の三年生が終わる頃になると、ダイヤモンドの婚約指輪をはめてくる同級生が出てきた。親のコネで就職を決めたと話している子もいる。みんなが進路を選択し始めたので、ぼんやりしていた私は少しずつ窮地に追い込まれていった。

大学の卒業が目前に迫ってきたが、自分自身はどう生きたら良いか、具体的にどうしたらいいのかわからない。どこかで結婚はしようと思っていたが、そうかといって今お嫁さんになるという発想はない。

お嫁さんになって自分の生き方を全部変えるとか、男性のために私の人生が妨害されるような結婚は考えられないことだった。

だから友だちが玉の輿に乗ると聞いても「はぁ、、、そうなの」で終わり。うらやましいとは感じなかった。

そもそも地位や名誉、お金は結婚した男の人から与えられるものでなく、自分の力で勝ち取るものだと思っていた。

ただ、そのためには武器にできるものが必要だった。大学を卒業しただけでは、社会で注目されないだろう。自分をアピールするための武器があるだろうか。考えてみたら、特別な武器は何も持っていない。

社会に出るのも怖かったし、出来るならもうちょっと学生でいたい。そんなときに私が興味をもったのが「留学」という言葉だった。

その言葉には、私の今の状況だけでなく長年の悩みを解決してくれる響きがあったからだ。

私は一人っ子だったこともあって、両親に「あんたが一番」と言われて育った。それに親の期待に応え、才気煥発でよくできた。

生徒会長や大学祭の実行委員長として采配を振るい、人前で話すことも得意だったから、「世の中に出たら一番になるねん」と信じ込んでいた。

でも実は、そういう思いが苦しく感じられた時期があった。一番になりたいとか、注目されていたいとか、そういう思いや欲があるから自分を自分で追い詰めて苦しくなってしまう。

そういったものを抑え込むことができれば、いくらでも簡単に楽に生活を送れるではないか。そう悩んで、考えて、なにか答えが見つけられないかと本もたくさん読んだ。そして自分なりに得た結論は、方法は二つしかないということだった。

一つはすべてをあるがままに受け入れる悟りの境地になること、もう一つは行動して自分が納得することだった。

私は行動してみないと納得できない、人から諭されても諦められないだろう。それに私は健康で体力がある。世の中で一番になれる可能性だってある。

「やってみないと納得しないのが自分じゃないか。ともかく何かをやってみよう」と、素直に自分の欲望を受け止めることにしたのである。

それからは、居直ってもう人に何と言われようと「ほっといて」の心境。私は一番になって、偉くなって、おいしいものを食べて、おしゃれで素敵なモノに囲まれてギンギラギンな生活をしたい。

世の片隅でひっそりと地味な生活をしたいと思って生きているわけではないのだから、成り金趣味と言われてもかまわない。自分が幸せに感じられる人生を送ろうと決めた。

世の中で一番になれるかどうかもわからないが、でもともかく何かをやってみよう。

「女性で修士号を持っている人は少ないじゃないか。英語を喋れるのも格好いい。よし、それなら大学院に留学しよう」となった。教育学は簡単そうだったというだけの理由。大学で教育学を勉強していたわけでもなかった。留学で納得するまで自分を試せればそれでよかった。

2.ひょんなきっかけから留学がバタバタッと決まる

留学を決心して、アメリカの大学院を調べているときに、親友が「親戚に留学した人がいる」と言う。早速その人に会いに出かけ、いろいろ親切に教えてもらった。

留学していたときのホストファミリーを紹介してもらい、その家から一番近くて教育学の修士課程のあるセントラルミシガン大学(Central Michigan University)に行くことに決めた。同じミシガン州のミシガン大学(University of Michigan)に、ミシガンメソッド(Michigan Method)という教授法を開発した有名な英語学校があるという。それなら、大学院に入学する前にそこで勉強しようとなった。

本当にひょんなきっかけから、ミシガン州がどこにあるのかも知らないままバタバタッと決まったのである。

留学先が決まると、当時は関西から留学する人が少なかったからだろう、領事館から「領事の面接を受けにくるように」と言ってきた。そのときには、経済的根拠を示すものを持ってくるようにと言うのである。

今なら預金残高証明書が経済的根拠になると判断できるが、そのときは何が何だかさっぱりわからない。母親が「これくらい持っていったらええやないか」と風呂敷に貯金通帳をいくつか包んだのを持って、領事館に面接にいった。

それに当時は、国外に持ち出せるドルに制限があり、ドルは一度に五〇〇ドルしか替えられなかった。今から考えれば、名前を借りていくらでも替えられたのだろうが、そこまで知恵が回らなかったのだ。

五〇〇ドルは一ドル三六〇円の正規の為替レートで替えてもらい、さらに一ドル四〇〇円もする闇ドルで一五〇〇ドル、合計二〇〇〇ドルを親に用意してもらった。母親が作ってくれた腹巻に二〇〇〇ドルを入れて、一九七〇年の春に伊丹空港からアメリカに出発したのである。

アメリカに出発する直前は、さすがの私も一人で行くのが怖くなり、簡単に行けるわけもないのに、友だちに電話をかけて「あんたも行かへんか?」と誘ったりしていた。でも不思議なことに、英語に対する不安はほとんどなかった。

サンフランシスコでシカゴ行きの飛行機に乗り換え、シカゴでまた乗り換えてミシガンに到着。空港でホストファミリーの出迎えを受け、居心地のよいファミリーのところで一週間過ごして、英語学校が始まるからと一人でノコノコとミシガン大学の寮に移った。

英語学校はミシガンメソッドで教えるというので、名前の響きからしても、英語がうまくなるのだろうと期待していた。ところがミシカンメソッドというのは、要はLL教室(※視聴覚室)を使った授業法のことで、授業の内容といえば日本の英語学校で教えているのと何も変わらなかった。私はそんなことも知らなかったのである。

英語のクラスは五月一五日から八月一五日までの一五週間で、一日五時間の授業があった。プログラムはカンバセーション、ボキャブラリー、グラマーとリーディング。英語のクラスは最初にテストがあり、その結果でクラス分けされる。一番下のクラスはABCから始めるし、一番上のクラスはかなり難しい。イランやラテンアメリカからの留学生もいたが、真ん中あたりのクラスにはどうしても日本人が集まることになる。

クラスは"Repeat after me."とか、"Do you understand?"程度で、難しい英語を話すわけではない。たとえ英語がわからなくても、先生のジェスチャー見ていたら、「ああこんなこと言うてんねんなあ」と理解できた。

寮は男性と女性で棟が分かれていたけれど、いくらでも自由に行き来できる。そうなるとどうしても、毎晩、夕食がすむと、ポテトチップとビールを持って、何となく日本人の部屋に集まってワイワイ飲んだり食べたりしながら話をする。

次の日は眠たくて、ほとんど授業に集中できない。ところが夕方になるとボーッとしていた頭も目もぎんぎんに冴えてきて、夜になるとまた日本人の部屋に集まる。

「誰ちゃんと誰くんが、このごろいつも一緒にいる」というようなくだらないことまで話題になる。それでも結構おもしろいから、三時、四時までおしゃべりしまくる。

その繰り返しで、だんだん勉強はそっちのけになっていく。

クラスにも寮にも日本人がいるから、英語を話す機会も必要性もなかった。

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著者情報:栄 陽子プロフィール

栄 陽子留学研究所所長
留学カウンセラー、国際教育評論家

1971年セントラルミシガン大学大学院の教育学修士課程を修了。帰国後、1972年に日本でアメリカ正規留学専門の留学カウンセリングを立ち上げ、東京、大阪、ボストンにオフィスを開設。これまでに4万人に留学カウンセリングを行い、留学指導では1万人以上の留学を成功させてきた。
近年は、「林先生が驚いた!世界の天才教育 林修のワールドエデュケーション」や「ABEMA 変わる報道番組#アベプラ」などにも出演。

『留学・アメリカ名門大学への道 』『留学・アメリカ大学への道』『留学・アメリカ高校への道』『留学・アメリカ大学院への道』(三修社)、『ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?(ワニブックスPLUS新書)』、ベストセラー『留学で人生を棒に振る日本人』『子供を“バイリンガル”にしたければ、こう育てなさい!』 (扶桑社)など、網羅的なものから独自の切り口のものまで、留学・国際教育関係の著作は30冊以上。 » 栄陽子の著作物一覧(amazon)
平成5年には、米メリー・ボルドウィン大学理事就任。ティール大学より名誉博士号を授与される。教育分野での功績を称えられ、エンディコット大学栄誉賞、サリバン賞、メダル・オブ・メリット(米工ルマイラ大学)などを受賞。

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