「英語学校を出ても、大学院の授業が聞き取れない!」留学がすべてのはじまり-私の留学- 第2回
【前回までのあらすじ】
奈良県生まれ、お嬢様育ちの栄 陽子(サカエ ヨウコ)。苦労知らずでちょっと気の強い彼女はエスカレーター式で中高大と卒業したが、その後、結婚や就職には向かわず、「人生で何かを一人で成し遂げてみたい」とアメリカ留学を決意。
親に頼み、知人のつてを活かして米国ミシガン州の英語学校に入学することに。英語しっかり学んだあとは大学院へ行く予定。しかし現地に着いてみると英語学校は日本人だらけ。彼女は「ほとんど英語を必要としない」生活を送る羽目になっていた。
3.理解しても、言葉としてキャッチできない
私が留学していたころのアメリカは、テレビドラマの『パパは何でも知っている』の世界。若い人は知らないと思うけど、このファミリードラマを見て日本人はアメリカの生活にみんな憧れていたのだ。
大きな冷蔵庫と食器洗い機まで揃っているシステムキッチンで、お母さんが大きなエプロンをして子どものためにクッキーを焼いている。お父さんは素敵なスーツを着て大きな車に乗って仕事に出かけていく。お父さんはお母さんにも子どもにもやさしくて……と、これが当時のアメリカのイメージだった。
英語学校のプログラムに参加してアメリカの家庭を見学にいくと、テレビで見たのと同じように、明るいトーンのシステムキッチンに、大きな冷蔵庫と全自動の食器洗い機が組み込まれていて、当時の日本の台所とは雲泥の差。
日本では二槽式洗濯機が風呂場に置いであった時代に、全自動の洗濯機と乾燥機まで揃っている。驚きながら全自動洗濯機と乾燥機を見ていたら、アメリカ人のおばさんが「洗濯機はこうやって……と、英語とジェスチャーで使い方を説明してくれた。
「ふーん、プルしてターンしてスイッチね」と、使い方は一通り理解できたが、ハッとおばさんが英語でどのように説明したのか、覚えていないことに気がついた。使い方はところどころの英単語とジェスチャーで理解できたのだが、英語をキャッチできていなかった。どんな留学生でも抱える最初のギャップである。
生活していくためには、話している内容を理解できないと支障が生じる。目と頭と勘をフル回転して理解しようとする。でも言葉をキャッチしようという姿勢でないと英語の上達は望めない。
英語を上達させるには、いつでもノー卜を持っていて、例えばおばさんが言ったとおり、それこそ"Pull the knob and turn."とメモして、声を出して何回も読む。そしてそれを使いながら行動する。これがコツ。
いつでも自分の単語帳を持ち歩いて、知らない単語は必ずメモして暗記していく。語学というのは、そのくらいの努力をしないと上達しない。
私は暗記するのはすこぶる苦手だったし、手帳を持ったらまず一日でどこかに置き忘れる。単語帳なんていくつ作っても全部なくす。コツコツ勉強するのもあまり好きでなかった。
私は勘がいいので、日常生活はアッという聞に困らなくなったが、英語をものにするのは多分ダメだろうと本能的に思っていた。
「大学院を卒業することはできるだろうけど、英語は多分ものにならないな・・・」と思ったくらいで、英語のことは心配もしていなかった。
4.大学院が始まった途端、夜も眠れない
英語学校で日本人とワイワイと騒いでいたある日、セントラルミシガン大学から「あなたの英語の能力はどうなっているか」と問い合わせがあった。
神戸で一度TOEFL®を受けた覚えはあるのだが、当時は結果も送られてこなかった。留学先が決まっていなかったし、TOEFL®はポピュラーでも主流でもなかったので、点数さえ知らずほったらかしのままにしていた。
私は大学の先生とはとても仲が良かった。その先生から「この世でこれぐらい優秀でエライ学生はいない」という内容の推薦状を大学院に送ってもらっていたので、それでは英語の能力はどうなのかと問い合わせてきたのである。
「日本で、中学・高校で六年、大学で二年、合計八年間も英語を勉強している。その上、ミシガン大学のかの有名なEnglish Instituteで十五週間の特訓コースを受けている。なんでこれ以上、私の英語力を疑うのか」という手紙をアメリカ人に書いてもらって送った。
この手紙で英語もオーケーとなり、大学院の入学許可を手中にすることができた。あとでわかったのだが、大学院へ入るにはミシガンテスト(Michigan Test)というミシガン独自の英語の実力テストで、八〇点くらいが必要だったのだ。
英語学校の最後のクラスでミシガンテストを受けた結果、確か六七か八点だった。その結果がわかったときは、入学許可が既に下りた後だった。学部長に呼び出されて会いに行くと、「あなたは何ていう子だ。あなたの英語のテスト結果が届いたが、もう考えられない」と言う。
「そんなこと言われても、私はこうやって英語で喋っているし、もう入学許可も貰っている」で押し通し、とにかく無事大学院に入学することができた。
学部長は「しょうがない。でも科目をたくさん取ったらダメだ、落第しちゃうから」と何度も念を押す。
一応学部長のアドバイスに従って、オーディオビジュアル・エデュケーション(Audio-visual Education)という視聴覚教育と、セカンダリー ・エデュケーション(Secondary Education)、いわゆる中等教育学の二科目しか登録しなかった。
でも、私は何の心配もしていなかった。そのころは日常生活で、困ることは何にもなかった。英語がわからなくても、私は勘がいいから、「こんなこと言ってんやろう」とピーンとくる。
ところが大学院の講義となると、日常生活の英語とはレベルがまったく違う。雲泥の差である。授業が始まった途端、何が何だかぜんぜんわからない。どんな講義が行われているのかもわからない。あまりにわからないものだから、完全に落ち込んでしまった。
「私はとんでもないことをやっているんじゃないか、何か人生ですごくエライことをしているんじゃないか」と、興奮して夜も眠れない。
日中もボーッとしていて、起きているのか寝ているのかもわからない状態で頭がクラクラしていた。もうほとんどノイローゼ状態。
人間は自分を失うと、何をするかわからない怖い部分がある。本当に狂ったら、公園で平気で寝ることも、裸で走り出したりすることだってできる。
「何をするかわからないぞ。突飛なことをするんじゃないか」という恐怖心がふくらんで、本当にだんだんおかしくなっていった。そのとき「このままではアカン。日本に帰らないと」という考えが点滅した。
アメリカに出発するときに、父は伊丹空港で「陽子さん、行っといでな」と励ましてくれたのだが、最後の最後に「陽子さん、アメリカがあかんかったら、フランス、イギリス、ドイツと行ってな、あちこち三カ月ほどいて、それで帰ってきてもええねんからな」と、耳元でささやいた。
父は老婆心で言ったのだが、そのときは「私が修士号取られへんと思うてから、こんなこと言うて。たいがい失礼やわ」と思っただけだった。
それが本当に追い詰められた状況で、父の言葉が点滅した。帰るならまともなうちに、それなりの格好つけて帰ろう。
だけど「どの面下げて帰れるのよ、ようけ餞別ももろうたし、パーティもいっぱいやってもらった。帰るに帰れない」と、考えがどうどうめぐりしていた。
どうしてそういうことをしたのか、衝動的で覚えていないのだが、ともかく授業の最中に立ち上がって「ドクター(教授)!」と叫んだ。
教授が「なに?ヨーコ」と私の顔を見た。
私は一気に
「ともかく先生の言ってることは一言もわからない。ホントに全然ダメ。私は一体どうしたらいいんですか??」と言いながら、
「ああ、これで私の人生は終わった。授業が終わったら、日本に帰ると母に電話しよう。母が私を全面的に支持してくれたのに、期待を裏切ってとても申し訳なかった・・・」と、心の中では日本に帰ることを考えていた。
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著者情報:栄 陽子プロフィール
栄 陽子留学研究所所長
留学カウンセラー、国際教育評論家
1971年セントラルミシガン大学大学院の教育学修士課程を修了。帰国後、1972年に日本でアメリカ正規留学専門の留学カウンセリングを立ち上げ、東京、大阪、ボストンにオフィスを開設。これまでに4万人に留学カウンセリングを行い、留学指導では1万人以上の留学を成功させてきた。
近年は、「林先生が驚いた!世界の天才教育 林修のワールドエデュケーション」や「ABEMA 変わる報道番組#アベプラ」などにも出演。
『留学・アメリカ名門大学への道 』『留学・アメリカ大学への道』『留学・アメリカ高校への道』『留学・アメリカ大学院への道』(三修社)、『ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?(ワニブックスPLUS新書)』、ベストセラー『留学で人生を棒に振る日本人』『子供を“バイリンガル”にしたければ、こう育てなさい!』 (扶桑社)など、網羅的なものから独自の切り口のものまで、留学・国際教育関係の著作は30冊以上。 » 栄陽子の著作物一覧(amazon)
平成5年には、米メリー・ボルドウィン大学理事就任。ティール大学より名誉博士号を授与される。教育分野での功績を称えられ、エンディコット大学栄誉賞、サリバン賞、メダル・オブ・メリット(米工ルマイラ大学)などを受賞。