歴史的に考えるとはどういうことか? アメリカの大学の歴史の授業
みなさんこんにちは。ケンタッキー州のCentre Collegeに留学した鈴嶋克太です。
前回の記事に引き続き、留学最初の2018年秋学期(Fall Semester)に受講したHistory (HIS) 120:Inventing the Modern World(担当:Earle先生)を振り返ります。
Think Historically 歴史的に考えるとは?
留学準備段階から「シラバスの内容を確実に理解することが大事」と肝に銘じていた私。HIS 120のシラバスにあった1つの言葉が引っかかりました。
「この授業を通して、学生たちは“Think Historically”する能力を獲得することが期待されています」
はて? Think Historically(歴史的に考える)とは何だろうか? 「歴史について考える」とは違うし・・・。
さっそくオフィスアワーに先生を訪ねて質問してみました。
「きみ、歴史を学ぶとはどういうことだと思う? 『○○年に××という人が、△△をした』ということを知ることだと思っていないかい?」
「はい。少なくとも、日本の中学・高校では、僕はそのように習ってきました。歴史は暗記科目でした」
「じつは、アメリカの高校でも、大なり小なりそういう要素はあるんだけどね。一方、この授業では1つひとつの歴史を、事実として伝えられていることとしてそのまま受け入れない。“Think Historically”というのは、『ある出来事が事実として伝えられている歴史的背景』を考えること。つまり、1つの出来事に関する文献や一次資料を読み、『その中の言説やそこで事実として伝えられていることが、なぜそう伝えられるのか?』『なぜ異なる解釈が生まれてくるのか?』を考えることだ」
「!!!」
振り返ってみると、自分の人生で1つの「コペルニクス的転回」が起きた瞬間でした。
小説の評論、映画鑑賞、キャンパスで人間観察・・・本当に歴史の授業!?
授業が始まってすぐに、最初のエッセー課題がありました。
お題は、“The Sense of an Ending”という小説を読んで、指定された4か所のうち1つを選んで、歴史学的観点で論評すること。
この小説は、年老いた男性が、大学時代の恋人と親友をめぐって、忘れていた過去の記憶をたどる中で、いかに自分で自分の記憶(不都合な過去)を捻じ曲げていたかを、自ら明らかにしていく物語。完全なフィクションで、歴史本ではありませんが、「歴史とは何か」を考えさせられる内容です。
『終わりの感覚』として翻訳されており、映画にもなっているので、おすすめです。
それにしても、期限は最初の授業から1週後。「リベラルアーツ教育はライティング重視」と聞いていましたが、あまりにも早すぎます。しかも、「ポストモダン文学」というジャンルらしく、断片的なエピソードが入り組んでいて、とにかくストーリーをつかみにくい。
「“Think Historically”とはこういうことだぞ」と学生に体感させるための仕掛けだったのでしょう。まだ夏の暑さが残る9月第1週の週末に、額に汗をかきながら格闘することになりました。
予習課題として“Hoodwinked”(邦題「リトル・レッド レシピ泥棒は誰だ!?」)という映画も見ました。「赤ずきんちゃん」をモチーフにしたこの映画では、森の中で起きたある事件について、4人の容疑者の証言が食い違う話です。事件当日の4人の行動が、それぞれの視点で順番に紹介されます。「1人ひとりの証言から出来事の真相に迫ることのむずかしさ」が伝わる映画です。
また、ある日には「グループに分かれてキャンパス内を歩き回り、人間観察をして、その人たちの行動や会話を記録してくる」というワークが行われました。
僕は、最初はわけもわからず皆についていったのですが、ワーク後に先生が言っていたのは、「現実世界には、無数の人がいて、それぞれ別の行動・経験をしている。それらを、取捨選択して『Centre Collegeの1日』というような記録をつくるのはとてもむずかしい。また、今日記録した人々の言動を数十年後に振り返ったら、どういう解釈や意味づけをすることになるのだろうか?」ということでした。
この授業は、いままで自分が受けてきた『歴史の授業』とはまったく違うもので、最初から最後まで、徹底して“Think Historically”することを学生に求める内容になっていました。
アメリカ人の学生にとっても、かなり学びの多い内容だったのでしょう。最後の授業が終わったとき、一斉に拍手が湧き起きりました。
いまの時代に必要な“Think Historically”
あらためて自分の言葉でまとめると、“Think Historically”とは「ある『歴史』がつくられた歴史的背景を考えること」です。
人の過去の記憶はあいまいで、しばしば都合のよいように解釈します。1つの時代や出来事に関して、さまざまな証拠や史料が残っていて、それらを組み合わせることで生まれる評価・解釈・ストーリーもさまざまです。
たとえば、Aさんは「○○年に起きたのは、△△だった」、Bさんは「いや、○○年に起きたのは、××だ」と言うかもしれません。そのとき、結論部分の違いにとらわれれば、両者の歩み寄りはむずかしいでしょう。
1つの時代や出来事のすべてを経験して記憶している人などいません。後世の人にとって『絶対の真実』は知りようがないものである。こう考えれば、あえて真実を追い求めなくてもよいということになります。
そうではなくて、Aさん・Bさんそれぞれの見解を形づくったのは何なのかを考える。それぞれの人生経験の違い、それぞれが基にしている史料の違いが原因であるとすれば、それらを知ることが、主張や見解が異なる他者の立場をよりよく理解し、許容することにつながる。
「歴史学」は他者とよりよくコミュニケーションし、お互いをよりよく理解するためのツールだったのです! なんだか、いまの時代に必要な心がまえのような気がしてきませんか?
鈴嶋克太さんの記事一覧
- 第1回 「自分は何をして生きていくのか?」 悩んだ末の「留学」という決断
- 第2回 リベラルアーツ×アメリカ英語×あこがれ。留学先としてアメリカを選んだ理由
- 第3回 集中力も高まる? 飲食OKが当たり前のアメリカの大学の授業
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