「自分は何をして生きていくのか?」 悩んだ末の「留学」という決断

こんにちは。2018~2020年に、ケンタッキー州のCentre Collegeに編入留学した鈴嶋克太です。専攻はInternational Studiesで、現在は東京の環境NGOで働いています。

この記事では、僕がCentre Collegeに留学するまでの経緯や留学中の経験を、社会人になって考えるようになったことを交えながら紹介します。

センター・カレッジ
Centre College

きっかけはテレビで見た海外の日本人

記憶をたどると、僕が後に留学をするきっかけは、中学2年のころにあったと思います。

とあるテレビ番組で、高校卒業後に単身で非英語圏の国に留学し、知識ゼロから半年で現地語を習得し、活躍している日本人(当時まだ大学院生)を紹介しているのをたまたま見たのです。

当時の僕は、毎日家と学校を往復し、放課後と土日は部活動(野球)に明け暮れ汗まみれになり、地元・熊本県を出る機会といえば、部活の遠征試合か修学旅行くらいしかなかったものですから、「世の中には、こんな日本人もいるのか」と大きな衝撃を受けました。

また、このころは、僕の兄と姉がともに県外の大学に通っていた時期であり、その2人と比較して、狭く平凡な日々を送っている自分に対してもどかしく思うと同時に、「テレビで見たあの人の生きざまを真似してみたい」「いつかは海外に行きたい」と漠然と考えるようになっていました。

とにかく遠くへ

中学卒業後、電車で1時間ほどかかる熊本市内の私立高校に進学しました。スポーツの強豪校でしたが、特進コースはそれなりの進学実績がありました。

じつは、自転車で通える距離に公立の進学校がありました。常識的な中学生ならこちらを選ぶはずです。でも僕は「できるだけ遠くに行きたい」と思っていたので、親の理解を得て、学費や通学時間が余計にかかる私学に行くことにしたのです。

高校時代の僕は、つねに「とにかく遠くへ。いつか海外へ」と思っていたものの、「海外の大学へ留学したい」という願望は、ほとんどありませんでした。

高校では、周りの友だちもみんな日本の国公立大学を志望していて、カリキュラムや授業も通常の大学入試・筆記試験に備えるための内容でしたから、そのような環境に僕の思考も順応していきました。

高校では、先生がたの助言を最大限生かし、良好な関係を築き、仲間と切磋琢磨し、寝る間を惜しむように勉強に励んだ結果、僕は東京大学に進学することができました。

道に迷った2年半

「できるだけ遠くに、いつか海外へ行きたい」、でも「いきなり海外留学は無理」と考えていた僕にとって、東大進学は最良のスタート地点のように思えました。

実際、授業のレベルは高く、英語で行われる教養科目もありますし、学部3年生を対象に準備されている交換留学プログラムでは提携先のいろんな大学に留学することができます。入学時は、「僕も交換留学しよう」と考えていました。

自分は何をしたいんだろう?

ところが、1年生の秋ごろから、留学云々の前に、「卒業したら自分は何をするんだろう」という悩みを抱え始めました。

授業は講義形式かつ期末試験で評価されるものがメインで、アメリカの大学のように出席、授業への参加、日ごろの課題提出などで評価されるわけではありません。多少欠席しても、教科書や友だちのノートを見たり、期末試験前に一気に詰め込めば間に合ってしまいます。

これ、本当に自分の身になってる?

やがて僕は「自分は本当に何かを学んでいるのか」と自分に問いかけるようになりました。

高校時代は、日々試行錯誤して勉強に励み、それなりに自分の身になる実感があったのですが、その日々と比較すると、大学生活が悪い意味で無難で、堕落しているように思えたのです。

周囲を見渡すと、「将来の進路」といったら法曹、国家公務員、外資系大手、研究者などをめざしている学生も多い。地元に帰って人に会うときなど、僕もそういった色眼鏡で見られ、「将来は・・・」といった期待の言葉をかけられることも多々ありました。東大は外から見ると「すごい」大学なのです。

「すごい」という外からのイメージと、実際の「無難で堕落した」現状との乖離。どんなに無難な毎日でも卒業さえすれば、自分もそんな「すごい」道に進むことができたでしょう。しかし、日々の勉強が身になっている感覚がもてず、「このままいけば、学歴だけ立派で中身が伴わない自分になるだろうな」と感じていました。

卒業したら自分は何をするんだろう。この問いの答えを探しに、いろんな仕事をしている人に出会い、話をするために日本の各地域に出かけて行った時期もありました。海外留学の夢なんて、ほとんど忘れていました。

東京が世界の中心じゃないと気づく

忘れかけていた留学への思いが再来したのは、ネパールの山間部にあるゲストハウスの一室でした。

2017年3月、大学3年の夏学期(4〜7月)を迎える直前、悩みが極限に達した僕は休学をすることにしました。そしてその年の7月、ネパールの首都カトマンズで実施されるボランティアプログラムに参加し他のです。下の写真は、ネパールで出会った仲間たちです(筆者=左端)。

ネパールの仲間たち
ネパールで

ネパールでの出会い

まず、現地・受け入れ団体の2人のスタッフの生きざまに心を揺さぶられました。彼らは大学を卒業しており、私財を投げ打って慈善団体を立ち上げ、開発から取り残された山間地域の生活向上に取り組んでいました。

いまとなっては、当時話してくれた詳しい内容は覚えていませんが、大学進学率が1割程度といわれる同国の中では、家庭の経済状況がかなり恵まれていた2人だったのだと思います。

また、現地でもどかしさを覚えたのは、自分の英語力です。

仲間から「カツヒロはどうする?」「どう考える?」「将来何をしたい?」等と聞かれても、うまく答えられませんでした。英会話力の問題というより、当時の自分が「自分なりの考え」「話す何か」をもっていなかった、とも言えます。

自分は何を学ぶべきか? この世界で何をすべきか?

とある休日に、仲間と一緒に路線バスを乗り継いで、山間の街に観光にでかけました。ネパールは、首都を一歩離れて山間部に入れば、開発から取り残された地域が点在しています。学校に通わず、家の仕事を手伝っているような子どもも多くいます。

そんな沿道の光景を見ながらたどり着いたゲストハウスの一室で、現地スタッフ2人の姿を思い浮かべながら、「自分は何をしていたんだろう」「なんて狭い世界で生きていたんだろう」と、それまでの自分を恥じる一方で、「恵まれた世界で生きてきた自分の力を、そうじゃない世界の人々のために使わなければ」という強い気持ちが生まれました。

東大生という肩書きや社会的な常識・既定コース・周囲の期待にとらわれず、自分が何を学び、何をすべきなのか。そのときの自分が必要としていたのは以下の3つの経験でした。

  1. 1つの専門分野に限定しない、世界の社会課題についての多様な学び
  2. 異なる境遇、国から来て、異なる関心をもつ人との交流
  3. 英語で発信する(話す・書く)スキル

こうして、ネパールのゲストハウスの一室で、「アメリカ留学」という選択肢にたどり着き、ネパールから帰った年の8月、留学準備に着手することになるのです。

次回は、留学先としてなぜアメリカを選んだのか、お話ししたいと思います。


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