アメリカの大学で学ぶ「宗教」。より望ましい多文化共生をめざして

みなさんこんにちは。ケンタッキー州のCentre Collegeに留学した鈴嶋克太です。

 Centre Collegeでは、International Studies(国際関係・国際政治)を専攻しましたが、基礎科目として、100番台の宗教の授業 “Western Religious Traditions”が必修でした。この記事では、この授業についてお話ししたいと思います。

アメリカの宗教と大学

タイトルがTraditionsと可算・複数形になっているように、この授業では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった、3つの別々の、しかし、時間をさかのぼれば共通の歴史と神をもつ宗教的伝統について勉強しました。

アメリカはキリスト教(とくにプロテスタント)の国というイメージがあります。実際、Centre Collegeの近くには長老派(Presbyterian) の教会があり、大学の創設期に資金提供を行ったり、教会のメンバーが大学の理事会で多数を占めたりと、かつてはかなり深い関係があったようです。

そのプロテスタントにもいくつも宗派があり、とくに歴史ある私立の学校の創設には、特定の宗派がかかわっているケースは珍しくありません。事情はカトリック、ユダヤ教、イスラム教、その他の宗教でも同じのようです。

アメリカ人の宗教観

留学中、信仰がある友人に連れられて、近くの教会の礼拝に参加したことがあります。クリスマスの時期には、上記の長老派教会やキャンパス内で関連する宗教的なイベントが開かれ、多くの学生が足を運びます。信仰をもっている学生も多いので、会話の中で、「神」について話が及ぶこともあります。

しばしば「無宗教」といわれる日本人の感覚からすると、アメリカでは多様な宗教が当たり前のように生活に馴染んでおり、みんな宗教について詳しいように思われるのですが、この授業を担当していた先生に聞くと、「アメリカ人の学生も、他人が信じる別の宗教については、あまり知識がない。宗教観は親の影響を受けるので、しばしば自分が信じる宗教の世界観や経験に基づいて、他の宗教をjudgeしてしまう」ということを言っていました。

日本人の目からすれば、議論や自己主張が好きなアメリカ人学生は、宗教についても大変な物知りであるかのように見えるのですが、たしかに言われてみれば「よく知らない」のかもしれません。

ということで、この授業では、まず各宗教の歴史的経緯について、クイズや小テストを通して吸収することに重きが置かれました。その後、それぞれの信仰をもつ人の世界観や体験に触れ、「それがどういうものなのか」「そういった世界観や体験には、どういう意味や歴史的背景があるのか?」を考える、という流れで進みました。

映画に込められた宗教的な意味

まず、film essayという課題がありました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれに関する映画を視聴して、analytical essayを書くというものです。

映画の内容(あらすじ、セリフ、演出、印象的だった場面など)について、それにどういう宗教的意味が込められているかをanalytical(分析的)に書きなさい、という課題です。

参考までに、この課題で視聴した映画のタイトルは以下です。

  • ユダヤ教:“The Quarrel”(1991年)
  • キリスト教:“The Apostle”(1997年)
  • イスラム教:“Malcolm X”(1992年)

2時間に及ぶ映画を日本語字幕無しで理解せよというのですから、大変です。また、いくら事前に授業で基礎的な知識を得ていたといっても、これらの映画は、おそらく自らも信仰をもつ人が本気で作りこんだ作品なので、情報量が膨大です。

それを、たとえば「水曜日の夜にキャンパス内のシアターで視聴した後、2日後(金曜日)の朝一の授業で提出」という具合でした。

執筆に与えられた時間はたったの二晩。しかも、他の授業の課題も抱えているので、実質一晩です。この時間的な制約の中では、追加で詳細なリサーチをしたり、あれこれ考える暇がありませんから、「いまもっている知識を駆使して自分の頭で言語化して、読む人に伝える」ということに注力するほかありませんでした。

Service Visit Essayという課題

 Serviceとは「宗教的な奉仕、儀式、礼拝」のことですが、この課題は、「3つの宗教から2つを選んで礼拝に参加して、そこで見たり感じたり考えたことを、descriptive essayもしくはnarrative essayの形で記しなさい」というものでした。

descriptiveというのは、1つの経験や感情について「さまざまな観点で説明的に」、narrativeというのは「1つのストーリーとして」という意味合いです。

先生からは、「読者の頭の中に情景が思い浮かぶように、そして、読者が『自分も礼拝に参加してみたい』と興味をそそられるように書きなさい」と言われていました。

ユダヤ教の教会とイスラム教のモスク

私は、ケンタッキー州第2の都市レキシントンにあるユダヤ教の教会とイスラム教のモスクに赴き、礼拝に参加しました。

ユダヤ教の人はアメリカではマイノリティであるため、宗教的つながりと教会での集いが、互いに助け合う土台(社会的セーフティネット)であるとの考えがあるそうです。それを反映してか、ユダヤ教(改革派)の礼拝では、終盤、壇上の聖職者(ラビ)から、最近、身内に不幸や悲しい出来事があった地域の信者の名前が紹介され、「一緒に寄り添おう」という呼びかけがなされました。

また、イスラム教への入信には特別な儀式や洗礼などは必要なく、イスラム教徒の前での信仰告白によって完了するとされています。また、「聖職者」がいないとされています。私が訪れたモスク内の礼拝スペースには、「聖壇」や崇拝の対象となるものがなく、ただメッカの方角を示す壁のくぼみがあり、平らな床が広がっているだけです。

礼拝開始の後に遅れてくる信者の人や、終了後もしばらく残って祈りを捧げ続けている人がいました。キリスト教、ユダヤ教、仏教などと違い、「聖職者」の存在を介さずに直接神様と繋がることができる。イスラム教のそういう考えかたが現れていると感じました。

モスク
授業で訪れたモスクの内部

 「宗教」の多様性と国際性

この授業では、最後にargumentative essayという課題もありました。これは、「1つの主題(thesis)を決めて、先行研究やデータを論拠にして論じる」という形の、一番学術的なタイプのessayです。

詳細は省きますが、私は「日本人は『無宗教』だというが、学術的な『宗教』の定義からすると、日本人の習慣や発想も立派な宗教の一形態である」ということを書きました。

この授業では、さまざまな題材でさまざまなタイプのessayを書かされましたが、まさにこの「異質な文化に対して先入観に頼らず、まず客観的な知識を得て、次に自分の五感で経験して、それを自分の言葉で伝える」というプロセスが、よりよい多文化共生・他者理解に必要だからこそ、International Studiesの必修科目だったのでしょうね。

他の授業でも「映画を見て、その批評を書く」という課題が出たことが何回かありましたが、とてもいい経験になりました。それまでは、「とくに感想が出てこない」ということが多かったのですが、留学後は、映画や絵画、その他の芸術作品を見る際に、いろいろ考えて分析・批評しながら見るようになったので、そういった意味でも人生が豊かになったと感じます。

以下の写真は、米国聖公会の中心地・ワシントン大聖堂です。アメリカには、プロテスタント、カトリックと並んで、米国聖公会もあります。2019年の冬休み、クリスマスの日にワシントン大聖堂のミサに参加して、本物のクリスマスを体験できました。

ワシントン大聖堂
ワシントン大聖堂

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