留学がすべてのはじまり-私の留学- 第4回

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前回までのあらすじ
奈良県生まれ、お嬢様育ちの栄 陽子(サカエ ヨウコ)。地元の大学を卒業後、英語もろくに喋れないにもかかわらず、知人のつてを頼りに米国ミシガンの大学院に入学。若者特有の意気込みと根拠のない自信だけで留学した彼女を待ち受けていたのは『授業についていくだけで精一杯の自分自身』だった。結局、大きく自信を喪失し、退学と帰国を考えるまでに。しかしギリギリで踏み止まり、必死の勉強を開始。毎日4時間睡眠で頑張り、なんとか大学院の授業にかじりついてく。そんな日々を送る中で栄 陽子は、少しずつではあるが、以前の彼女らしさを取り戻し、さらに成長も見せ始めていた。

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-目次-

8.留学カウンセリング

9.波乱万丈のビジネスウーマン

文字数:約2,900字 所要時間:約7分

8.留学カウンセリング

驚きと絶望で始まった私の留学生活も、二年目ぐらいからやっと落ち着きを見せた。私の気持ちも和ぎ、友だちも出来ていた。また、週末になると、ボーイフレンドとゴーゴーを踊りにいくのも楽しみだった。

当時のアメリカの大学院には、日本の企業からMBA(経営学修士号)などの取得のため派遣されてきていたエリートサラリーマンも多くいた。私はそういう人たちと一緒に飲みにいっては、「あんたとこの会社はどういうことしてるの、これからの日本ではどんなビジネスがはやるやろか」などと、そういうことを話すのが楽しかった。

ロマンチックな話よりもビジネスのことばかり話題にするので、「あんた変わってる」とよく言われていた。

そんな私が大学院で学んでいた教育学の一つのテーマに「第二言語としての英語教授法」(Teaching English as a Second Language)という、留学生への英語教授法があった。

そのクラスを受けているときに、留学生の実態を調べるために、自分でアンケート用紙を作って全米の学校に配ったらどうだろうと思いついた。

インターナショナル・アドバイザーという、留学生を支援してくれる事務所へ行って、そこの先生や秘書に「こういうアンケートを出そうと思うがどうだろう」と相談すると「おもしろい、おもしろい」と言う。

タイプが打てなかったので、秘書の若い子に「じゃ、あんた手伝って。タイプ打ってくれる」と頼み込んだ。タイプ打ってもらい、英語のスペルチェックをしてもらった。もちろん、いくらかアルバイト料は払ったが、まあ家庭教師みたいな存在だった。

アンケート調査は一〇〇〇校ぐらいの学校に配ったので、「アメリカの大学のシステムはこうなっているんだ。こういう形で入学を許可するのか」とよくわかった。

何かの拍子で日本人と知り合って話をすると「大学院に行こうと思ってきたのに、どうしていいかわからない」と言う。

「それならこういう書類揃えて、学部長に会って、こう言ったら学校に入れてくれるからやってみぃ」と、私。そして、その通りにするとみんな入学できた。

そうやって何人かの手伝いをしていたら、「マウントプリザントという町に大阪弁しゃべる変わった姉ちゃんがいて、学校に入れてくれる」という噂が飛び交ったようだ。隣の州からも「どうやったら大学に入れるのか、教えてほしい」と日本人が訪ねてくるようになっていた。

そのときは考えてもいなかったが,結果としてこれが今の仕事の始まりになった。

今振り返ってみれば、私はその時から留学の進路指導、いわゆる留学カウンセリングを行っていたのだ。

ある大手企業の社長の息子が「大阪弁の姉ちゃんのおかげで大学に入れた」と父親に報告したことが、そもそもの始まりだった。

ある日その父親から電話がかかってきた。

「往復のチケットを送るから、東京まできてもらえないだろうか。あなたの話を聞かせてください」というので、生まれて初めて東京へきたのである。

その大手企業はちょうど業務の拡大をしているときで、教育事業にも進出しようとしていた。

「これからは留学する人がどんどん増えると思う。ビジネスとして確立するかどうかはわからへんけど、留学するためのカウンセリングは絶対必要になる」と、経験から得られた私の考えをすべて彼に話した。

彼は旅行会社も持っていたので、「留学を前提とした学校で英語を教えて、カウンセリング(留学の進路指導)をして、旅行会社が飛行機に乗せてアメリカに連れていく。これからのビジネスとして面白いんじゃないか」と、閃めいたようだ。

すぐに「新しい事業をやるから、あなたのノウハウと知恵を貸してほしい。顧問として参加してくれないか」と言ってきた。

その話は渡りに船だった。そのときは、修士課程は修了して無事に卒業。その後に博士課程を取ろうとしていたのだが、Ph.D (Doctor of Philosophy)は今まで以上にコツコツ勉強しなければならない。修士諜程までであえればある程度勘が良くて、人並みの忍耐力があればついていける。

でもPh.Dは本当に勉強好きでないと、とても無理だとわかりかけていた。それで意を決した。一九七二年の春、私の留学は終わったのだ。

9.波潤万丈のビジネスウーマン

顧問になった新規事業は、スタートからトラブル続きだった。学校の名前を決めたら、同じ名前の予備校からクレームがきて名前を変更せざるをえなくなったりと、決して順調なスタートではなかったのである。

私も二五、六歳のときだったから、今から考えたら「アホやなぁ」と思うけど、ビジネスウーマンだということで粋がっていたところもあった。

新規事業に回されたサラリーマンのおじさんたちは、私が顧問となったいきさつを知らないから、トップからアメリカ帰りの偉そうにしている若い女の子を押しつけられて「何だこれは・・・」と思っているのがありありと見てとれた。

彼らは一流大学卒の四〇代のサラリーマンで、彼らにしてみたら、よくわからない新規事業に出向させられ、さらに「何でこんな小娘に偉そうなこと言われないといけないのか」という意識があったのだろうと思う。

しかし、彼らの意見には向調できないことも多かった。「生徒を集めるには、提携の大学があったら有利だ、ともかくどっかの大学と提携してくれ」と言う。

会議でも「栄さん、あなたの留学していたミシガン州のあたりの大学で、我が社と提携できるところありませんか」と提携大学を見つけたいの一点張り。

あくまでビジネスとして留学に携わる彼らは、集めたお客さんを『必ず入学させてくれるアメリカの学校』が欲しかったのだ。

私にしてみれば、そんなことぜんぜん話にならない。五〇人の学生がいたら、それぞれ能力も年齢も学びたいことも違う。高校生も大学生もいるから学力だって違う。

そんなに簡単に学生を入れてしまう提携校のレベルはおよそ知れているし、毎年何十人も日本人を合格させていたら数年のうちに日本人だらけの学校になってしまう。

「提携する学校だけに放り込むなんて、そんなの話にならないじゃないですか。一人ずつカウンセリングして、その人に適した学校に願書を出すべきです」というのが、私の主張だった。

アメリカで得たアンケートの調査結果やカタログなど、資料は十分持っている。英語学校、大学、大学院で、それぞれどんな書類が必要なのかも把握していた。それぞれ能力に合った学校を選び、書類を提出すればいいだけなのだ。

今考えてみても私の主張は正論だと思う。でも彼らとしてはそんな不安な話はなかったのだろう。二十代の小娘に全部任せるのは不安でしょうがない。だから何か保証が欲しい。ビジネスマンとしては、そう考えるのは当然なのだと思う。

「栄さん、絶対入学できるという根拠はあるんですか」。

「きちんと願書を出せば大丈夫です」と、話はまったくの平行線。

そして、当たり前のことではあるが、彼らとの決別の日がやってきた。

留学がすべてのはじまり-私の留学- 第5回へつづく

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栄陽子プロフィール

栄 陽子留学研究所所長
留学カウンセラー、国際教育評論家

1971年セントラルミシガン大学大学院教育学修士課程を修了。帰国後、日本で留学カウンセリングを立ち上げ、留学指導を行い、これまでに7000人以上の留学を成功させる。留学関係の著作も多数。 » 栄 陽子留学研究所について