留学がすべてのはじまり-私の留学- 第3回

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前回までのあらすじ
奈良県生まれ、お嬢様育ちの栄 陽子(サカエ ヨウコ)。苦労知らずでちょっと気の強い彼女はエスカレーター式で中高大と卒業したが、その後、結婚や就職にはむかわず、「人生で何かを一人で成し遂げてみたい」とアメリカ留学を決意。
知人のつてを活かして、なんとか米国ミシガン州の大学院に入学。しかし、英語が苦手な陽子は授業についていくことが出来なかった。そしてついに、悩みつめた彼女が教授にむかって叫ぶ。「先生の言ってることは一言もわからない。ホントに全然ダメ。私は一体どうしたらいいんですか?」

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-目次-

5.教授とクラスメートを巻き込んでサバイバル作戦を開始

6.私らしく振舞えない

7.突き落とされて見えた世界

文字数:約4,000字 所要時間:約10分

5.教授とクラスメートを巻き込んでサバイバル作戦を開始

どうしてそういうことをしたのか、衝動的で覚えていないのだが、ともかく授業の最中に立ち上がって「ドクター!」と叫んだ。

教授が「何?陽子」と私の顔を見たので、一気に「ともかく先生の言ってることは一言もわからない。ほんとにぜんぜんダメ。私はどうしたらいいんですか??」と言いながら、「ああ、これで私の人生は終わった。授業が終わったら、日本に帰ると母に電話しよう。母が私を全面的に支持してくれたのに、期待を裏切ってとても申し訳なかった」と、心の中では日本に帰ることを考えていた。

あとで隣の席にいた男の子に「おまえ全身震えて、顔が真っ青だったぞ」と笑われたが、突然に授業をさえぎったものだからクラスも変な雰囲気になっていた。

「もう終わりだ、日本に帰るしかない」と考えているとき、教授が近くに寄ってきて「陽子、アメリカ人もよくわかってないから心配しなくてもいい」。

それを聞いたときに「あぁ、そうかアメリカ人にもアホがおるのか」と、まさに「目からウロコが落ちた」。

それまではアメリカ人にもアホがいるとは考えもしなかった。漠然とみんなスーパーマンだと思っていた。彼らはオーバーなジエスチャーで、意見もはっきり言うし話し方も上手い。

だからって「アメリカ人がみんな賢いわけじゃない。そらそうやわなぁ」。理解できないアホもいるだろう。授業を聞いているのもいるし、聞いていないのもいる。

冷静になって考えれば、日本でも真面目に授業を聞いていない学生がたくさんいる。日本語の講義だって、すべて理解できるわけではない。それでもテストの前に友だちにノートを借りたりして辻棲を合わせていた。

日本ではテストのときだけ辻棲合わせをしていたけれど、アメリカでは毎日それをすればいいのだ。そもそも授業を全部わかろうとするほうがおかしい。なぜなら英語のハンディがあって、対等にやれないのだから。だから、『まずどうやって生き延びるかを考えなくては』と思い至った。

それからは、いつも大量のカーボン紙を持って授業に出た。クラスメートの顔を見てなるべく賢そうな学生に「あなたのノー卜にこのカーボン紙を挟んでもらえないか」と頼み込み、ノートをコピーさせてもらう。

さらに講義の後、教授のところに行っては、「ほんとに申し訳ないけど今日はどこやったんでしょう」と、その日の授業内容を教えてもらっていた。

その後に部屋で一人で辞書を引きながら教科書を読んでいくと、二時間で一ページしか進まない。こんな状態だったので、平均睡眠時間は四時間ぐらいしかなかった。

講義がわからなくても、予習して授業に出ると黒板に書いてあるのは教科書のこの辺りだなとわかる。授業についていくには、予習も復習も両方が欠かせなかった。

予習して授業を聞いて、そしてレポートを提出する。レポートは日本の教育関係の本を取り寄せ、それを基礎にして何とかやりくりした。

大学院だったので、クラスメートは若い人が少なく、三〇代、四〇代の大人が多かった。金持ちではなかったけれどみんな一生懸命で、「陽子、ノー卜貸してあげよう」とか、「この科目は前のときのノートがあるからあげるわ」と、クラスメートにもずいぶんと助けられた。

ソーセージとかを持っていくだけで、たいしたことをするわけではないが、「今度の週末、子ども連れてピクニックに行くから、陽子もおいで」と車でピックアップして連れていってくれる。本当にいろいろと親切にしてもらった。

州立大学でも、大学院は担当教授が決まっていてクラスも小人数だから、担当教授もオフィスに聞きにいくと、いろんな形で教えてくれる。

教授は研究者でもあるから、自分の知らないことを教えてくれる学生に好感を持つ。だから、日本からの資料を基礎にしてレポートをまとめて提出すると、結構いい点がもらえる。そういう努力もしたので、何とか落ちこぼれずにすんだ。

6.私らしく振る舞えない

私の人生の中で、自分自身について、生き様についてすごく真剣に考えたのは留学時だった。

セントラルミシガン大学はマウントプリザントという人口三万の小さな町にあって、寮の窓から見えるのは一面の小麦畑だけだった。

そんな風景を見ながら勉強していると、何だか虚しくなってくる。「遠い遠い地球の裏側で、私は何してるんか」と泣けてきた。

勉強しても終わりが見えない。こんなに苦労して何になるんだろう、自分は何をしているのだろう、どうして生きているのか、どうして勉強しなければいけないのだろうと、そういうことばかり頭に浮かんでくる。

本もたくさん読んだ。日本ではそんなに読書家でもなかったのに、勉強して英語に疲れると日本語の本を読んだ。日本語だったら、どんな難しい内容でも頭にすんなりと入ってくる。まさに乱読だったが、このとき得た知識は、あとあといろいろなところで力になった。

その当時は、精神的にハッピーではないからものすごく食べた。フラストレーションでいくら食べても物足りない感じがする。精神的に欝屈して食べるから、太り方も健康的ではない。

そのころ鏡を見て、自分の顔がペッチャンコだなと、嫌というほど思い知らされた。ぶくぶく太るから、顔はますますペッチャンコに見える。

日本では、自分の顔に失望することは経験したことがなかった。美人だと思ったこともなかったが、結構「カワイイやんか」と自信を持っていた。

顔がちょっとふっくらしているなぁと思うときがあっても、「今日は調子が悪いのや」ぐらいの感じで、それ以上深く考えることもなかった。

それが顔はペチャンコに見える、授業にはついていけない、お金もない、もう八方ふさがりもいいところだった。いつもパチーンと切れそうなくらい神経をとがらせていた。全てにおいて自信喪失で、日本にいたときのように自分らしく振る舞えない。

日本にいる頃の私は、家でも学校でも女王様だった。小さいときから親は「あんたが一番」と育ててくれた。女の子だからということを一切言われたこともない。堂々と自分の意見を発表するから、先生にも友人にも一目置かれる存在だった。

それが誰も注目してくれない。アピールしても「なんか田舎の東洋人が変なこと言ってるなぁ」ぐらいにしか見てくれない。寂しい気持ちを慰めてくれる仲間もいない。

メチャメチャ落ち込んで、すべてに自信喪失していた。ガツガツ食べて太って、何かもう、留学して最初の一年は毎日息しているのが精一杯という感じだった。

7.突き落とされて見えた世界

ミシガンは一一月になると雪が降り始めて、春まで雪の中の生活になってしまう。

出かけるときにはバスを使うしかないが、停留所は学校の寮から離れていたので、雪の中を一〇分も歩かなくてはならなかった。

雪が降るとすごく車がほしくなる。だけど車を買うのにもお金がいる。一ドル三六〇円の時代で、消しゴム一個でも「へぇー高いな、節約せなあかん」なんて考えていたのだから、とても車は買えなかった。

日本では買い物をするときに値段を見て、高いからと諦めたことがなかった。お金に困った経験もなかったので、アメリカで生活して初めて自分が貧乏だと思った。

パスの停留所から、重たい荷物引きずって雪の中を歩かなくてはならない。日本から持ってきたブーツはカカトが高くて、滑り止めの鋲も打ってない。それをはいて歩くとツルンと滑ってこける。

そういうときに、自動車でぬくぬく帰る学生や、ボーイフレンドとキスしながら歩いている女学生に出会うと人生いやになる。

雪に滑って転んでお尻が濡れて、もうこんなことに耐えられないと思っているときに、足を引きずって歩く一人の女の子に会った。彼女は幼い頃から小児マヒを患っているのだという。

図書館で夜中の一二時までかかってレポート書いても、いっこうに終わらない。嫌になって帰ろうと図書館を出ると、外は真っ暗で道はカチカチに凍っている。

暗い雪道を歩いているときに、私は足を引きずる彼女をたびたび見かけ、「あぁ、私はまだまだ弱いなあ、こんなことではアカン!なんでここにいるのかよく考えんと」と、何度も思った。

ダンスパーティでの彼女は、『お情けのエスコート』にとても喜んでいた。アメリカのダンスパーティは、女の子同士では出られない。エスコートしてくれる男の子がいないと取り残されてしまうのだ。

ダンスパーティの直前になっても、彼女は誰にも誘われなかった。それで、彼女の友だちが男の子にエスコートを頼みこんだのだ。いってみればお仕着せのボーイフレンドなのに、綺麗ににドレスアップして楽しそうにしている。

そういうことを目の当たりにして、みんな楽しく過ごしたい、幸福になりたいと望んでいることがよくわかった。それぞれの状況によって、望みも幸福感も違うことがよく理解できた。自分の置かれている立場から一方的に物事を判断してはいけないことも教えられた。

私は若いころ、すごく高慢だった。お金がないからと、自分のやりたいことを我慢するようなことがなかった。ボーイフレンドがいなくて寂しい思いを味わったこともない。すべて親から与えられていたから、持たざる人の立場になって考えたことがなかった。

留学して初めて孤独と戦い、人恋しくて、いま自分を守ってくれるたくましい男性さえいれば私は幸福になれる。心から理解しあえる友人がいれば私は救われる。英語がもっとわかれば、私らしく振る舞えるのになどと、色々なことを思った。持たざる人の悲しみや辛さを実感したのだ。

人の複雑な深層心理が少しつづ見えはじめてから、日本で読んだときには面白いとも思わなかった小説も、そういうことを経験してから読み返したときにはすごく心にしみた。

孤独の世界に突き落とされ、すべてが与えられない境遇に立たされなかったなら、決して学ばなかったことだろうと思う。

「私が留学で学ぶべき一番大切なことはこういう事なのかも知れない」そんなことを考えながら、私はアメリカでの一日一日を誠実に大切に、なにより一生懸命過ごすようになった。

いま思い返しても、これほど勉強をした期間はないと言っていいくらい大量の本を読み、何かを考える日々。そんな毎日を過ごす私の元にある日、一本の国際電話がかかってきた。



「往復チケットを送るから、東京に来てもらえないでしょうか。あなたの話を聞かせて下さい。


はじめて踏むことになるであろう東京の土地、私の人生が大きく変わり始めていた。

留学がすべてのはじまり-私の留学- 第4回へつづく

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栄陽子プロフィール

栄 陽子留学研究所所長
留学カウンセラー、国際教育評論家

1971年セントラルミシガン大学大学院教育学修士課程を修了。帰国後、日本で留学カウンセリングを立ち上げ、留学指導を行い、これまでに7000人以上の留学を成功させる。留学関係の著作も多数。 » 栄 陽子留学研究所について