留学がすべてのはじまり-私の留学- 第5回

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前回までのあらすじ
奈良県生まれ、お嬢様育ちの栄 陽子(サカエ ヨウコ)。米国ミシガン州の大学院に留学し、猛勉強の末に修士号を取得。在学中には、そのおせっかいな性格から日本人の大学入学の手続きを手伝ったり、進路の相談にのったりしていた。

そして次から次へと学生を合格させてしまうその手腕が噂になり、ついに日本の大企業にスカウトされる。彼らは新規ビジネスとして留学斡旋サービスに目をつけていた。しかし、ほどなくして大企業と陽子は対立。

大企業はアメリカの特定の大学と提携し、その大学にだけ留学手続きを行うという考えを持っていた。対する陽子は、あくまで個人の事情に合わせてベストな留学先を考え、学生と一緒に入学の手続きを進めていきたいという意見を譲らなかった。そして、両者の決別の日が遂にやってきた。

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-目次-

10.日本初の留学カウンセラー

11.人生の岐路


文字数:約3,000字 所要時間:約8分

10.日本初の留学カウンセラー

結局彼らは、留学経験のある大学教授を見つけてきた。その先生の紹介で、サンフランシスコにある大学と提携し、「サンフランシスコにある大学へ入れます」をキャッチフレーズに安定した斡旋先を作ったのである。

日本で英語を勉強して、TOEFL®スコアが上がればサンフランシスコにある大学に入れる。それはそれで学生にはメリットがある。普通なら、高校の成横が悪ければ大学には入れないのだから。

提携大学のみに送り込むのだから、留学カウンセラーとしての私の出る幕はなくなった。そのころは彼らとの関係もギクシャクしていたから、「持ってきたカタログや資料を全部返して欲しい。辞める」と宣言した。

トップの人に「関連会社にでも就職できませんか」と頼めばよかったかもしれない。でもそのときは、その会社に就職するのがどんなに大変で、偉大なことで、どれだけ誉れ高いことかまったく知らなかった。それにサラリーマンになることを考えたこともないのだ。

私は憤慨して「自分一人でやります」と辞めてしまった。それが今の仕事の本当の始まり。

奈良の両親に「留学カウンセリングを始めたいのでお金出して」と頼み込んだ。「なんぼいるのか」と聞かれて、アパートの家賃と生活費一年分を援助してもらった。アパートといっても外人専用のマンションだったから、すごく高い家賃だった。

両親は反対しなかったが呆れていた。ともかく、「一年がんばっても食べられない状態だったら奈良へ帰る」ことを約束させられた。

それから留学カウンセラーとして確立するまでは、苦闘の連続だった。振り返ってみると、本当に「けなげやってんな」と思うけれど、渦中にいるときは必死だった。

人間は将来が不安で、しかも貧乏で苦しい状況にあると、しなくてもいい心配までする。いくら考えても答えの出ないことはわかっていても、頭から離れない。

若かったので、お金のことはそれほど苦にならなかったが、そもそも日本で留学カウンセラーというものがビジネスとして成り立つかどうかが不安だった。

留学カウンセラーとしてスタートしたけれど、学校の先生にはなれるだろうから、そのほうが楽な人生を送れるのではないか。

奈良に帰れば家もある。親も経済力があるから、生活の心配をしなくていい。奈良で普通の生活を送れば、こんなにのたうち回るほど悩むこともないと考えた。

私は大胆なわりには、神経質で細かいことに気のつく、結構「くちゃくちゃした性格」なので、そのときは本当に悩んで苦しんだ。精神的な葛藤はすさまじかった。

最後には、失敗して泣きわめいて、諦めざるをえない結果になるかもしれない。成功しても、こんなに苦労して「ああ、所詮こんなもんやったのか」と思うかもしれない。

どちらにしても、ともかく自分が納得できるまでやってみよう。その結果、「ああ、しんど、もうええわ」と思って死ねれば、とってもラッキーな人生。

「あれもほしかった、これもやり足りない。悔しい」と思って死ぬことになるかもわからない。でも自分を信じることでしか自分の道は見つからないというのが、私の出した結論だった。

お嫁さんになるという発想もないから、お見合いをしても将来の夢を演説していた。

お見合いの席で、私が下向いたまま「そうですか、そうですね」と小さな声で相づちを打っていると、大抵は男性からオーケーの返事がもらえる。

でもそれは私の生き方と違う。パッと顔を上げて「あんた、今の話もう一度言うてみい。人生そんなもんと違うやろう。何言うとんねん」となると、三〇分もたたないうちにほとんどの男性が飛んで逃げて帰った。

逃げて帰らなかったのが今の亭主。京都のロイヤルホテルで紹介されて、フランス料理を食べながら、彼はぜんぜんアルコールがダメなので、私が一人で飲みながら大演説をぶった。

正確には覚えていないけれど、自分の将来の夢や戦国時代に生まれていたら一国一城の主になっていたという話をしたのだろうと思う。

普通の奥さんになるタイプには見えないし、私は主婦として家庭におさまる気は微塵もなかった。亭主は料理、洗濯、何でも自分でできるので、私に対してそういうことを期待はしていなかった。

だから結婚生活は至って順調。二人の息子が生まれでも、私は仕事を続けてこられた。

結婚当初は、彼は獣医として病院を持ち、私は留学カウンセリングの仕事をしていた。留学カウンセラーの仕事が忙しくなり、現在のアークヒルズの事務所に移転したのを機に、彼は動物病院を閉めて私の仕事を全面的にバックアップしてくれるようになった。

今では、栄陽子留学研究所の事務長として、彼はなくてはならない存在となっている。

11.人生の岐路

最近、「人生の岐路でどうしたらいいだろうか」という相談が増えてきている。

まわりから見ていると、恵まれた環境で、何も悩むことがないように見えても、人にはそれぞれ人生を考え直したくなる時期がある。

日本の大学でよかったのかと疑問を感じている学生もたくさんいる。「学校が悪いわけじゃない、ただこのままでいいのだろうか」と悩んでいる。

一流大学を卒業して、一流企業に勤めていても、人生を賭けてアメリカへ飛び出そうとしている。主婦でも何のために生きているんだろうとフッと思う。なにかで立ち止まったときに、もっと広い世界で、違う価値観で生きてみたいと考える。

「このままでも平穏無事でいい生活を送れるだろう。だけどどっか違うんじゃないか」と考える。でもそれを打ち破れない人がたくさんいる。

そんな思いを捨てて、世間の常識のなかで生きて、六〇歳や七〇歳で自分の人生は何だったのだろうかと考えるほど悲しい話はないだろうと思う。

どの生き方が幸せかどうかわからない。どうしたら自分が一番満足するのか分からない。でも少なくとも自分で楽しい、充実していると感じられる生き方が幸せではないだろうか。

自分自身の生き方を考えずに生きてきて、あるときにどうしたらいいのかわからなくなり、ただただ混乱している人もいる。

このままでは自分の人生ではないと思っていても現状を打破できない。留学したいと言ったらまわりからも袋叩きにあう。現状に満足していなくて追い詰められていても、固定観念に束縛されていて身動きできないでいる。

そういう人の話を聞いていると私もすごく辛くなる。「あんたも因果やな」と相づちを打つと、ほとんどの人が涙をぶわっと浮かべて泣く。

人はそれぞれ持っている能力が違うのだから、誰が決めたかわからない、ちまたにある幸せになるという道を追い求めることはないのではないか。自分の幸せは自分で見つけるしかない。

自分に自信を持って、自分を大事にして、高く売って生きていこうとして悪いわけがない。もっと自分に自信を持って、自分の力を発揮できる方向に歩いたらいいと思う。

「何ていうのかな、本当にちょっとしたことなんや。束縛されているものから抜け出して、気持ちをちょっと切り換えるだけで、楽しく生きられるはずなのに」と相談を聞いていてすごく感じる。

カウンセリングにくる人は、一八歳の学生も三〇歳過ぎの人でも、みんな人生の岐路で悩み迷っている。だから私も真剣勝負で立ち会っている。

本音を聞き出せなければ上滑りのカウンセリングになってしまう。初対面の人が本音を話せるように、脳細胞をフル回転させながら向き合う。大変な仕事だけども、そこがまた魅力的なところでもある。

そんな留学カウンセリングを続けて約40年以上、7000人の留学を手伝い、全米600以上の学校から合格通知を貰ってきた。

そして、このコラム「留学がすべてのはじまり-私の留学-」もいよいよ次回が最終回。ここまで読んでくれたあなたに伝えたいことがある。

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栄陽子プロフィール

栄 陽子留学研究所所長
留学カウンセラー、国際教育評論家

1971年セントラルミシガン大学大学院教育学修士課程を修了。帰国後、日本で留学カウンセリングを立ち上げ、留学指導を行い、これまでに7000人以上の留学を成功させる。留学関係の著作も多数。 » 栄 陽子留学研究所について